ヨーロッパ某国、某地方に、腕利きの形成外科医がいるという。
傷跡の治療から先天性の奇形まで、その医師の手にかかればまるで初めから異常などなかったかのように美しくなれるという噂で、ヨーロッパ中から美しさを求める患者が後を絶たなかった。
その医師、トーリン形成外科の院長アルカディウス・トーリンもまた、ひと目見ればハッと息を呑むほど美しい男性だった。
肩口で切り揃えた漆黒のストレートヘアを、襟足で括っている。その瞳は彫りの深い眼窩から氷のような鋭さを放ち、肌は透き通るように白かった。すらりとした長身で、折れそうなほど細い手足。しかし、白衣から覗く筋張った手首は、そう簡単に折れそうにないほど太い骨格が確かに判る。
患者は皆こぞってこの美しい外科医に一目会いたくて、些細な手術も相談に訪れた。
今日もトーリン形成外科は朝から膨大な診察を捌き、午後から手術のスケジュールに追われていた。
彼の手術はまさに神業。ほとんど出血らしい出血を伴わない、血管を綺麗に避けた鮮やかなメス捌きと、完治後は手術の痕を残さない繊細な縫合技術で、その手腕は誰もが溜め息すら忘れるほどであった。
ある日、一人の女性がトーリン形成外科へ相談に訪れた。彼女の名はアンジェリカ。彼女は幼い頃に「アグリー」という不名誉なあだ名をつけられて以降、極度の醜形恐怖でいつも自分自身を責めていた。そのため彼女は外見を気にするあまり裏方の仕事に従事し、コツコツと整形手術費用を貯めてきたのである。
午前中の診察で、彼女は「顔をまるっきり美しく作り変えてください」と懇願した。瞼はふっくらとした二重に、唇はぽってりとしたタラコ唇に、顎は割って、鼻は小さめに。アルカディウス医師は術後の完成イメージを鏡型Android端末に映し出し、これでいいかと確認した。まぶたと唇にはヒアルロン酸を注入し、顎と鼻は形成手術をする。数回に分けて通院しながら手術することになると説明した。鏡型Android端末に映し出されたアンジェリカの顔は、現在の顔から似ても似つかない理想の顔をしていて、まるで魔法のようだった。アンジェリカは激しく首を縦に振って、是非この顔にしてくださいと懇願した。
一回目の手術は瞼のヒアルロン酸注入だった。たるんだ奥二重の瞼に張りが出て、くっきりとしたラインが浮かび、ぱっちりと明るい印象に生まれ変わった。
二回目の手術は唇のヒアルロン酸注入だった。これまで薄く印象の弱かった唇は、ぽってりとして蠱惑的で、口紅の塗りがいのありそうなセクシーな口元に生まれ変わった。
そして三回目の鼻の手術をした後、事件は起きてしまう。
流石に鼻にメスを入れると数日はガーゼと包帯が剥がせない。それを知り合いに見つかって、整形手術をからかわれてしまったのだ。
アンジェリカはさすがにやり過ぎたと思った。醜いままの顔も嫌だが、整形した顔で生きていくのも後ろ指をさされるのではないかと、急に怖くなった。アンジェリカはいつものように自分を責め、腕を切り刻んで不安を解消しようとした。
ついに包帯とガーゼを剥がして抜糸する日がやってきた。アンジェリカは不安を抱えたままトーリン形成外科に向かった。
診察室に入ってきたアンジェリカは両腕に包帯をしていた。アルカディウス医師はその腕の包帯について訊いてきた。
「その腕はどうしたんですか?」
鋭い射貫くような目に、アンジェリカは委縮した。
「これは、その、何でもないんです。ちょっと怪我をして」
「ここは病院です。簡単な処置はできますよ。見せてください」
抵抗できずに、アンジェリカの包帯が解かれていく。すると、肌に密着していた包帯が剥がれると同時に、傷口から再び血が溢れてきた。
「血……!」
アルカディウス医師の意識がぐらりと揺らぎ、一瞬倒れそうなほどの強いめまいに襲われたかと思うと、彼は猛烈に飢餓感を覚えた。
赤い液体。血液。それは、彼が普段喉から手が出るほど欲している彼の大好物であった。
次の瞬間、アルカディウス医師は自分でも無意識のうちに彼女の腕にむしゃぶりついていた。
「えっ、先生……?!」
あふれる血液、喉を満たす瑞々しい命の水。ああ、何と甘美な味わいだろう。
しかしそれも彼自身の唾液の作用で次第に止まってしまう。血の味がしなくなってようやくアルカディウス医師は我に返った。やってしまった。求めてしまった。喰らってしまった。彼は血への渇望が自制できないあまりに、極力血を見ないよう、血管の流れを読み、ほとんど出血を伴わない手術を心がけていたというのに。つい、醜態を晒してしまった。
そう、彼は吸血鬼だったのだ。
放心状態のアンジェリカの様子に気まずさを覚えたアルカディウス医師は、コホンと咳ばらいをし、
「自分を傷つけるのはやめなさい。美しい体をわざわざ醜くする必要がどこにあるかね?簡単に傷口を縫ってあげるから、もうこんな真似はしないことだ」
と、アンジェリカを諫めた。
「す……すみません……。もう、しません……」
アルカディウス医師は傷口を鮮やかな針捌きで縫合した。抜糸の必要のない、体に吸収される縫合糸を使用したため、数日で傷口は綺麗になくなるだろう。
鼻の抜糸をすると、想像以上に美しく見違えた顔に生まれ変わっていた。
「綺麗……」
するとアルカディウス医師は信じられない真実を語った。
「実は、元々の鼻の形が美しかったので、ほとんど大きくいじってはいないんですよ。一回り小さくしただけで。貴女は元々とても美しい人だ。その元々授かった顔を、大事にしてほしいと思いましてね」
「美しい……?私が?」
「貴女はおそらく悪い夢を見ていたんだ。貴女は決して醜くない。だから、私はさほど手を加えていない。そのままの自分自身をよく見て。自分を大事にしてください。もう、腕を切って自分を傷つけるようなことはしないように。そんなことをしたら本当の意味で醜くなってしまう」
アンジェリカの瞳からとめどなく涙が溢れてきた。そのままでも美しいなんて、今まで誰も言ってくれなかった。こんなに美しい形成外科医が美しいと認めてくれたのだ。それが何よりも美しさの証明のようで。
アンジェリカはその仕上がりに満足し、顎の手術を断った。このままの顔で生きてゆこうと、心に刻んだ。
「ありがとうございました」
診察室から立ち去る時に振り返った彼女の顔は花が開いたような晴れやかで美しい笑顔だった。
「何とか誤魔化せたか……。危なかった」
アルカディウス医師はふうと大きく溜め息をついた。患者の血をあんな情けない様で下品に啜ってしまったのは醜態だった。今後は血を渇望しないように、適度に血液を摂取して、取り乱さないようにしよう。
「アンジェリカ……。おそらくまだ処女だな。瑞々しい、清らかな血だった。実に美味だった」
もう二度と彼女がこの病院にかかることはないと思うと、少し惜しいような気がしないでもない。
「さて、次の患者に気持ちを切り替えなくては」
アルカディウス医師は自身の両頬をパシンと叩いて気合を入れると、次の患者を呼んだ。
今日もテレビでは爽やかなトーリン形成外科のCMが流れている。
「当院ではあなたの美しさを引き出すお手伝いをしています。トーリン形成外科」
END.
傷跡の治療から先天性の奇形まで、その医師の手にかかればまるで初めから異常などなかったかのように美しくなれるという噂で、ヨーロッパ中から美しさを求める患者が後を絶たなかった。
その医師、トーリン形成外科の院長アルカディウス・トーリンもまた、ひと目見ればハッと息を呑むほど美しい男性だった。
肩口で切り揃えた漆黒のストレートヘアを、襟足で括っている。その瞳は彫りの深い眼窩から氷のような鋭さを放ち、肌は透き通るように白かった。すらりとした長身で、折れそうなほど細い手足。しかし、白衣から覗く筋張った手首は、そう簡単に折れそうにないほど太い骨格が確かに判る。
患者は皆こぞってこの美しい外科医に一目会いたくて、些細な手術も相談に訪れた。
今日もトーリン形成外科は朝から膨大な診察を捌き、午後から手術のスケジュールに追われていた。
彼の手術はまさに神業。ほとんど出血らしい出血を伴わない、血管を綺麗に避けた鮮やかなメス捌きと、完治後は手術の痕を残さない繊細な縫合技術で、その手腕は誰もが溜め息すら忘れるほどであった。
ある日、一人の女性がトーリン形成外科へ相談に訪れた。彼女の名はアンジェリカ。彼女は幼い頃に「アグリー」という不名誉なあだ名をつけられて以降、極度の醜形恐怖でいつも自分自身を責めていた。そのため彼女は外見を気にするあまり裏方の仕事に従事し、コツコツと整形手術費用を貯めてきたのである。
午前中の診察で、彼女は「顔をまるっきり美しく作り変えてください」と懇願した。瞼はふっくらとした二重に、唇はぽってりとしたタラコ唇に、顎は割って、鼻は小さめに。アルカディウス医師は術後の完成イメージを鏡型Android端末に映し出し、これでいいかと確認した。まぶたと唇にはヒアルロン酸を注入し、顎と鼻は形成手術をする。数回に分けて通院しながら手術することになると説明した。鏡型Android端末に映し出されたアンジェリカの顔は、現在の顔から似ても似つかない理想の顔をしていて、まるで魔法のようだった。アンジェリカは激しく首を縦に振って、是非この顔にしてくださいと懇願した。
一回目の手術は瞼のヒアルロン酸注入だった。たるんだ奥二重の瞼に張りが出て、くっきりとしたラインが浮かび、ぱっちりと明るい印象に生まれ変わった。
二回目の手術は唇のヒアルロン酸注入だった。これまで薄く印象の弱かった唇は、ぽってりとして蠱惑的で、口紅の塗りがいのありそうなセクシーな口元に生まれ変わった。
そして三回目の鼻の手術をした後、事件は起きてしまう。
流石に鼻にメスを入れると数日はガーゼと包帯が剥がせない。それを知り合いに見つかって、整形手術をからかわれてしまったのだ。
アンジェリカはさすがにやり過ぎたと思った。醜いままの顔も嫌だが、整形した顔で生きていくのも後ろ指をさされるのではないかと、急に怖くなった。アンジェリカはいつものように自分を責め、腕を切り刻んで不安を解消しようとした。
ついに包帯とガーゼを剥がして抜糸する日がやってきた。アンジェリカは不安を抱えたままトーリン形成外科に向かった。
診察室に入ってきたアンジェリカは両腕に包帯をしていた。アルカディウス医師はその腕の包帯について訊いてきた。
「その腕はどうしたんですか?」
鋭い射貫くような目に、アンジェリカは委縮した。
「これは、その、何でもないんです。ちょっと怪我をして」
「ここは病院です。簡単な処置はできますよ。見せてください」
抵抗できずに、アンジェリカの包帯が解かれていく。すると、肌に密着していた包帯が剥がれると同時に、傷口から再び血が溢れてきた。
「血……!」
アルカディウス医師の意識がぐらりと揺らぎ、一瞬倒れそうなほどの強いめまいに襲われたかと思うと、彼は猛烈に飢餓感を覚えた。
赤い液体。血液。それは、彼が普段喉から手が出るほど欲している彼の大好物であった。
次の瞬間、アルカディウス医師は自分でも無意識のうちに彼女の腕にむしゃぶりついていた。
「えっ、先生……?!」
あふれる血液、喉を満たす瑞々しい命の水。ああ、何と甘美な味わいだろう。
しかしそれも彼自身の唾液の作用で次第に止まってしまう。血の味がしなくなってようやくアルカディウス医師は我に返った。やってしまった。求めてしまった。喰らってしまった。彼は血への渇望が自制できないあまりに、極力血を見ないよう、血管の流れを読み、ほとんど出血を伴わない手術を心がけていたというのに。つい、醜態を晒してしまった。
そう、彼は吸血鬼だったのだ。
放心状態のアンジェリカの様子に気まずさを覚えたアルカディウス医師は、コホンと咳ばらいをし、
「自分を傷つけるのはやめなさい。美しい体をわざわざ醜くする必要がどこにあるかね?簡単に傷口を縫ってあげるから、もうこんな真似はしないことだ」
と、アンジェリカを諫めた。
「す……すみません……。もう、しません……」
アルカディウス医師は傷口を鮮やかな針捌きで縫合した。抜糸の必要のない、体に吸収される縫合糸を使用したため、数日で傷口は綺麗になくなるだろう。
鼻の抜糸をすると、想像以上に美しく見違えた顔に生まれ変わっていた。
「綺麗……」
するとアルカディウス医師は信じられない真実を語った。
「実は、元々の鼻の形が美しかったので、ほとんど大きくいじってはいないんですよ。一回り小さくしただけで。貴女は元々とても美しい人だ。その元々授かった顔を、大事にしてほしいと思いましてね」
「美しい……?私が?」
「貴女はおそらく悪い夢を見ていたんだ。貴女は決して醜くない。だから、私はさほど手を加えていない。そのままの自分自身をよく見て。自分を大事にしてください。もう、腕を切って自分を傷つけるようなことはしないように。そんなことをしたら本当の意味で醜くなってしまう」
アンジェリカの瞳からとめどなく涙が溢れてきた。そのままでも美しいなんて、今まで誰も言ってくれなかった。こんなに美しい形成外科医が美しいと認めてくれたのだ。それが何よりも美しさの証明のようで。
アンジェリカはその仕上がりに満足し、顎の手術を断った。このままの顔で生きてゆこうと、心に刻んだ。
「ありがとうございました」
診察室から立ち去る時に振り返った彼女の顔は花が開いたような晴れやかで美しい笑顔だった。
「何とか誤魔化せたか……。危なかった」
アルカディウス医師はふうと大きく溜め息をついた。患者の血をあんな情けない様で下品に啜ってしまったのは醜態だった。今後は血を渇望しないように、適度に血液を摂取して、取り乱さないようにしよう。
「アンジェリカ……。おそらくまだ処女だな。瑞々しい、清らかな血だった。実に美味だった」
もう二度と彼女がこの病院にかかることはないと思うと、少し惜しいような気がしないでもない。
「さて、次の患者に気持ちを切り替えなくては」
アルカディウス医師は自身の両頬をパシンと叩いて気合を入れると、次の患者を呼んだ。
今日もテレビでは爽やかなトーリン形成外科のCMが流れている。
「当院ではあなたの美しさを引き出すお手伝いをしています。トーリン形成外科」
END.