知人の家の猫が子猫を沢山産んだというので、一匹貰ってくることになった。それが我が家の一員、茶トラの「オキャ」だ。
オキャは、小さい頃から時々「おきゃっ」と変な声で鳴く。だからオキャ。
オキャはすくすく大きくなり、大人になる頃は「おきゃ」が、だんだん「おか」になっていき、どう考えても「丘」と発音しているように聞こえた。
さらにおかしなことに、オキャは、テレビに山や坂道、丘から見下ろす風景が、旅番組やドラマで映し出されると、食い入るようにテレビに見入るのだ。
私たち家族は、「オキャは前世で丘に何かあったのかもしれないね」と話していたが、身近に丘なんて無かったので、変な習性だねと笑った。
そんな我が家に転機が訪れた。
父が隣の県に転勤になったのだ。
もう実家には帰ってこれないかもしれない、との知らせに、私達は悲しみに暮れた。
母は専業主婦だからいいが、私はバイトを辞めなくてはならなくなったし、弟は高校を転校しなければならない。
何よりオキャがいるから、新しい家はペット可能の家でなければ…。
まあ、ゴタゴタ随分揉めたけれど、結局はボロボロで猫の爪磨ぎ自由の安い借家に引っ越しが決まった。
オキャを新居に運ぶとき、新居の途中に小高い丘を一つ越えた。
車が坂を登り傾くと、オキャは、むくりと体を起こし、「おかっ!」と鳴いた。
窓ガラスに張り付いて外の風景を食い入るように見入る。
時々発作のように「おかっ!」と鳴いた。
「あら、やっぱりこの子、丘がわかるのかしら。すごい反応」
丘を越えて坂を下ると、急にオキャは興醒めて、つまらなそうに体を丸めて狸寝入りしてしまった。
オキャは、やっぱり丘が好きなのだろうか。
私はなかなかバイトが決まらず、暇な毎日を過ごしていたので、ふとした思い付きで、オキャを自転車のカゴに乗せて、近所の小高い丘に連れていくことにした。
オキャは自分が何をされるのかと怯えて、自転車のカゴの中で身を縮めて悲鳴のような声で鳴いた。
「安心しな、オキャ、楽しいところだよ」
私はそうなだめながら、自転車を走らせた。
近所に見晴らしのいい丘がある。この辺りは丘だらけである。オキャは喜ぶだろう。
案の定、私が自転車から降りて自転車を押し、急な上り坂を上ると、オキャは色めき立った。
固く丸まった体をよろよろと起こし、しきりに辺りを見回す。
そしてそこが丘だとわかると、「おかっ!」と鳴いた。
「おー。わかるか。そうだよ。大好きな丘だよ」
オキャはカゴの縁に前足を掛け、背伸びをして丘を堪能していた。
そして私は見晴らしのいい丘のてっぺんの公園に着くと、そこに自転車を停めた。
眼前には、この街一帯が見渡せる素晴らしい景色。
オキャは背筋を伸ばして、その眺望に見入っていた。そして小さく、「おきゃっ」と鳴いた。
しばらくボーッとその風景を眺めていると、オキャはカゴの中で丸くなり、せっかくの風景に背中を向けてしまった。そして、にゃーん、と、つまらなそうに鳴いた。
「なんだ、オキャ、もう満足したの?遊ばないの?」
私はカゴから下ろしてあげようとした。するとオキャは悲鳴のような声で鳴き、威嚇し、暴れに暴れてカゴにしがみついた。どうやらカゴから降りたくないようだ。
仕方ないので帰ることにした。私の両腕は傷だらけにされてしまった。オキャは、カゴの中で丸くなって、知らんぷりしていた。
それからというもの、オキャは毎日のように丘の上に連れて行けとせがむようになった。
餌をあげても遊んであげても興味を示さず、トイレの掃除をしても鳴き止まない。何故だろうと思って自転車で丘の上に行くと、それで満足して大人しくなるのだ。
「犬だと散歩に連れて行くのが大変だし」
そんな理由で、
「ペット飼うなら猫がいいね」
と話していて、やっと手に入れた猫だ。
なのに、結局犬より面倒な散歩に連れて行くはめになってしまった。
たまに気まぐれに行きたがらない日があったが、ほとんど毎日のように丘の上に連れて行けとせがまれる。私はバイトが決まってからは、バイトに出る前の早朝に、一度丘の上に散歩に連れて行くのが日課になった。
そんな日が三年も経った頃だろうか。オキャは6歳になった。
そして、お腹に癌が見つかった。
オキャはみるみる弱って行った。
すっかり丘の上に連れて行けとせがまなくなり、毎日縁側で眠ってばかりいるようになった。
餌もよく吐くし、粗相はするし、とうとうオキャはもうダメなのか、と、私たちは覚悟させられる事になった。
ある秋の、日曜日の事だ。いつのまにか「ニャア」としか鳴かなくなっていたオキャが、久しぶりに、「おきゃ……」と鳴いた。
目頭を瞬膜が覆い、口からよだれを垂らして、今にも死にそうなオキャが、弱々しく「おきゃ……」と鳴いた。
「お母さん、姉ちゃん、オキャ、丘の上に行きたいんだよきっと。連れて行ってあげようよ」
地元の大学に進学した弟が、オキャを抱きかかえながら言った。
お父さんもオキャの顔を覗き込んで、
「もうそろそろだって、オキャも悟ってるのかもしれないな。よし、お父さんが車を出すから、皆で連れて行ってやろう」
お父さんは車にスコップを積み込んだ。
「万が一、な」
お母さんは、もう涙が抑えられないようだった。
車がいつもの坂を登った時、車の傾きを察して、オキャが頭を持ち上げた。儚げに首を巡らせ、「おきゃ……」と鳴いた。
「もうすぐだよ、オキャ。丘の上に連れて行ってあげるからね」
「にゃーん」
車を公園の駐車場に停め、タオルで包まれたオキャを抱きかかえ、いつもオキャが食い入るように眺めていた景色を見せてやる。
オキャはタオルの中で精一杯体を伸ばして、首を巡らせ、久しぶりに丘の景色を見回した。そして、弱々しく「おきゃ……」と鳴いた。
そして満足そうに首を落とすと、そのまま眠るように動かなくなった。
一番見晴らしのいいところの片隅に、スコップで穴を掘ってオキャを埋めた。
「オキャは本当に丘が好きなんだね」
「なんで、そんなに丘が好きなんだろう」
「前世、かなあ………」
私たち家族は、それからしばらく猫は飼わなかったが、何年かして、今度は犬を飼う事になった。何の変哲も無い、よくいる柴犬だ。
柴犬は散歩が大好きで、グイグイ私を引っぱって行く。
土地勘に未だに疎い私も知らないような道へと、グイグイと。
そこは私の知らない丘の上だった。
「こんなところがあったんだ……」
丘の上で犬と遊んでいると、その丘の片隅に、動物のお墓によくありがちな、木の棒が刺さって石を置かれている場所があった。
「おきゃっ」
懐かしい鳴き声が聞こえた気がした。
*終わり*
オキャは、小さい頃から時々「おきゃっ」と変な声で鳴く。だからオキャ。
オキャはすくすく大きくなり、大人になる頃は「おきゃ」が、だんだん「おか」になっていき、どう考えても「丘」と発音しているように聞こえた。
さらにおかしなことに、オキャは、テレビに山や坂道、丘から見下ろす風景が、旅番組やドラマで映し出されると、食い入るようにテレビに見入るのだ。
私たち家族は、「オキャは前世で丘に何かあったのかもしれないね」と話していたが、身近に丘なんて無かったので、変な習性だねと笑った。
そんな我が家に転機が訪れた。
父が隣の県に転勤になったのだ。
もう実家には帰ってこれないかもしれない、との知らせに、私達は悲しみに暮れた。
母は専業主婦だからいいが、私はバイトを辞めなくてはならなくなったし、弟は高校を転校しなければならない。
何よりオキャがいるから、新しい家はペット可能の家でなければ…。
まあ、ゴタゴタ随分揉めたけれど、結局はボロボロで猫の爪磨ぎ自由の安い借家に引っ越しが決まった。
オキャを新居に運ぶとき、新居の途中に小高い丘を一つ越えた。
車が坂を登り傾くと、オキャは、むくりと体を起こし、「おかっ!」と鳴いた。
窓ガラスに張り付いて外の風景を食い入るように見入る。
時々発作のように「おかっ!」と鳴いた。
「あら、やっぱりこの子、丘がわかるのかしら。すごい反応」
丘を越えて坂を下ると、急にオキャは興醒めて、つまらなそうに体を丸めて狸寝入りしてしまった。
オキャは、やっぱり丘が好きなのだろうか。
私はなかなかバイトが決まらず、暇な毎日を過ごしていたので、ふとした思い付きで、オキャを自転車のカゴに乗せて、近所の小高い丘に連れていくことにした。
オキャは自分が何をされるのかと怯えて、自転車のカゴの中で身を縮めて悲鳴のような声で鳴いた。
「安心しな、オキャ、楽しいところだよ」
私はそうなだめながら、自転車を走らせた。
近所に見晴らしのいい丘がある。この辺りは丘だらけである。オキャは喜ぶだろう。
案の定、私が自転車から降りて自転車を押し、急な上り坂を上ると、オキャは色めき立った。
固く丸まった体をよろよろと起こし、しきりに辺りを見回す。
そしてそこが丘だとわかると、「おかっ!」と鳴いた。
「おー。わかるか。そうだよ。大好きな丘だよ」
オキャはカゴの縁に前足を掛け、背伸びをして丘を堪能していた。
そして私は見晴らしのいい丘のてっぺんの公園に着くと、そこに自転車を停めた。
眼前には、この街一帯が見渡せる素晴らしい景色。
オキャは背筋を伸ばして、その眺望に見入っていた。そして小さく、「おきゃっ」と鳴いた。
しばらくボーッとその風景を眺めていると、オキャはカゴの中で丸くなり、せっかくの風景に背中を向けてしまった。そして、にゃーん、と、つまらなそうに鳴いた。
「なんだ、オキャ、もう満足したの?遊ばないの?」
私はカゴから下ろしてあげようとした。するとオキャは悲鳴のような声で鳴き、威嚇し、暴れに暴れてカゴにしがみついた。どうやらカゴから降りたくないようだ。
仕方ないので帰ることにした。私の両腕は傷だらけにされてしまった。オキャは、カゴの中で丸くなって、知らんぷりしていた。
それからというもの、オキャは毎日のように丘の上に連れて行けとせがむようになった。
餌をあげても遊んであげても興味を示さず、トイレの掃除をしても鳴き止まない。何故だろうと思って自転車で丘の上に行くと、それで満足して大人しくなるのだ。
「犬だと散歩に連れて行くのが大変だし」
そんな理由で、
「ペット飼うなら猫がいいね」
と話していて、やっと手に入れた猫だ。
なのに、結局犬より面倒な散歩に連れて行くはめになってしまった。
たまに気まぐれに行きたがらない日があったが、ほとんど毎日のように丘の上に連れて行けとせがまれる。私はバイトが決まってからは、バイトに出る前の早朝に、一度丘の上に散歩に連れて行くのが日課になった。
そんな日が三年も経った頃だろうか。オキャは6歳になった。
そして、お腹に癌が見つかった。
オキャはみるみる弱って行った。
すっかり丘の上に連れて行けとせがまなくなり、毎日縁側で眠ってばかりいるようになった。
餌もよく吐くし、粗相はするし、とうとうオキャはもうダメなのか、と、私たちは覚悟させられる事になった。
ある秋の、日曜日の事だ。いつのまにか「ニャア」としか鳴かなくなっていたオキャが、久しぶりに、「おきゃ……」と鳴いた。
目頭を瞬膜が覆い、口からよだれを垂らして、今にも死にそうなオキャが、弱々しく「おきゃ……」と鳴いた。
「お母さん、姉ちゃん、オキャ、丘の上に行きたいんだよきっと。連れて行ってあげようよ」
地元の大学に進学した弟が、オキャを抱きかかえながら言った。
お父さんもオキャの顔を覗き込んで、
「もうそろそろだって、オキャも悟ってるのかもしれないな。よし、お父さんが車を出すから、皆で連れて行ってやろう」
お父さんは車にスコップを積み込んだ。
「万が一、な」
お母さんは、もう涙が抑えられないようだった。
車がいつもの坂を登った時、車の傾きを察して、オキャが頭を持ち上げた。儚げに首を巡らせ、「おきゃ……」と鳴いた。
「もうすぐだよ、オキャ。丘の上に連れて行ってあげるからね」
「にゃーん」
車を公園の駐車場に停め、タオルで包まれたオキャを抱きかかえ、いつもオキャが食い入るように眺めていた景色を見せてやる。
オキャはタオルの中で精一杯体を伸ばして、首を巡らせ、久しぶりに丘の景色を見回した。そして、弱々しく「おきゃ……」と鳴いた。
そして満足そうに首を落とすと、そのまま眠るように動かなくなった。
一番見晴らしのいいところの片隅に、スコップで穴を掘ってオキャを埋めた。
「オキャは本当に丘が好きなんだね」
「なんで、そんなに丘が好きなんだろう」
「前世、かなあ………」
私たち家族は、それからしばらく猫は飼わなかったが、何年かして、今度は犬を飼う事になった。何の変哲も無い、よくいる柴犬だ。
柴犬は散歩が大好きで、グイグイ私を引っぱって行く。
土地勘に未だに疎い私も知らないような道へと、グイグイと。
そこは私の知らない丘の上だった。
「こんなところがあったんだ……」
丘の上で犬と遊んでいると、その丘の片隅に、動物のお墓によくありがちな、木の棒が刺さって石を置かれている場所があった。
「おきゃっ」
懐かしい鳴き声が聞こえた気がした。
*終わり*